
わたしの好きな歌舞伎のセリフ #2
歌舞伎には一度聴いたら忘れられないセリフがたくさんありますよね。今回は、数え切れないほど歌舞伎を観劇してきた解説者にとってのイチオシセリフをご紹介する「わたしの好きな歌舞伎のセリフ」をお届けします。
第2回のご担当は阿部さとみさん。共感するセリフや心がジーンとするセリフなど、阿部さんの好きなセリフとは……? どうぞお楽しみください。
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文:阿部さとみ
歌舞伎沼に遊んでうん十年。好きなセリフはたくさんある。義太夫物に純歌舞伎、能取り物などなど。日常に使っているお気に入りもある。日々ふと思い出せば、脳内の妄想劇場行き列車が発車する。
飲まなきゃやってられない
私はお酒が好きなため、かなり大人になった今でも母にたしなめられる。深酒をしてはダメだ、と。そこでいつも返すのがこちら。
「酒でも無理にめえらざあ、よもお命は続きますめぇ。さぁ、飲んだ酒なら酔わずばなるまい、酔った酒なら醒めるが道理。醒めて上の御分別なもーし」
『仮名手本忠臣蔵』「七段目」の平右衛門のセリフである。場面は祇園一力茶屋。敵討のことはどこへやら、遊興にふける(ように見える)大星由良之助。三人侍が心底を探りにくるものの、敵討なんてなんのことだと酩酊して寝てしまう。三人が斬りかかろうとするところへ、足軽の平右衛門が止めに入る。そこでのセリフである。由良之助の今日までのご苦労を考えたら、無理にでもお酒を飲まなくては、生きて行かれないであろうというのである。
言うまでもなく私は由良之助ほどの苦労はしていない。とはいえ、私も色々大変なことがあって、酔わなきゃやってられない日もあるのよと、都合よく変換して使っているのだ。
ちなみに基になった浄瑠璃では「酒でも無理に参らずば、これまで命も続きますまい。醒めての上の御分別」との文言だから、「さぁ、飲んだ酒なら酔わずば……」は歌舞伎の創作だけど、こういうところにも歌舞伎の工夫が感じられて、とても好きな場面である。
忠臣蔵七段目〔仮名手本忠臣蔵 嘉永2年9月 筑後芝居〕 「大阪錦絵」より
酔っ払ってこぼれ出る回想が心にしみる
それから、お酒繋がりで次のセリフ。
『新皿屋敷月雨暈』(「魚屋宗五郎」)の磯部邸玄関先。妹を殺された宗五郎が断っていた酒を飲み次第に酔って、妹を手討ちにした殿のところへ乗り込むのだが……。そこで、宗五郎が語る、「酔って言うんじゃございませんが」ではじまる一連のセリフがジーンとする。貧乏だった魚屋が殿様のお蔭で借金も返すことができ、商売に精を出したところ、毎日繁盛したという話に続き、
「好きな酒をたらふく飲み、何だか心が面白くってね、親父も笑や、こいつも笑い、わっちも笑って暮しやした。ハヽヽヽヽ、ハヽヽヽヽ、ハヽヽヽヽ、ワハヽヽヽ、あゝ面白かったね」
と過去を回想する。宗五郎と父親、妻、皆が笑って暮す幸せだった日々が彷彿とし、宗五郎の現在の哀しみやその葛藤が浮かび上り、じわりと涙がにじんでくる。
ヒロインのプライド
宗五郎の妹は陰謀に巻き込まれて手討ちとなる悲しい運命を辿ったが、彼女に限らず歌舞伎のヒロインの人生はなかなかハードだ。凡庸な人生ではないからこそヒロインとなるのだろう。幸せは平凡の中にあるのかもしれないと考えさせられもする。
そうしたヒロイン達のセリフにも胸がしめつけられるものが多く、中でも『義経千本桜』「すしや」のお里のセリフに心惹かれる。