
忘れられないあの舞台!~六代目 中村歌右衛門の想い出~
解説者が想い出の舞台について語る「忘れられないあの舞台!」シリーズ、今回のご担当は酒井孝子さんです。
六代目 中村歌右衛門丈が活躍した数々の舞台をあれもこれもたっぷりと語ってくださいました。どうぞお楽しみください。
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文:酒井孝子
憧れの「美しい人」
コロナ禍のもとの歌舞伎見物は大向うの人の掛け声が禁じられ、拍手のみとなって盛り上がりの場面は些か淋しく感ぜられる。
その掛け声には「〇代目!」とか「〇〇町」とか「〇〇屋」等いろいろあるが、屋号に大の字が付けられたのは、女方ではおそらく六代目 中村歌右衛門だけではなかろうか。すなわち、「大成駒」である。
華奢な身体にもかかわらず、まさに「大成駒」の掛け声にふさわしい存在感が、舞台上でも、また歌舞伎界に於いてもあったように思う。
戦前の福助時代は、少女時代の私にとってとにかく「美しい人」としての憧れの的であった。そして当時、もう一人、目立つ若手女方が居た。三代目 尾上菊之助(後の七代目 尾上梅幸)、名優・六代目 尾上菊五郎の子息である。福助よりも二才年上で、二人は何かにつけてライバルと評されたようだ。芸風は、明るく大らかで、健康的な色気があり近代的な香りのする、声が美しい人だった。一方の福助は、古風で指の先まで気を配るほどの繊細の中に凛として総てに気品が漂う。真逆な芸風の二人であった。
御本人達がお互いをどう意識したかは知る由もないが、この二人が車の両輪のように同時代に芸を競い合ったからこそ、戦後の歌舞伎復興の大きな要因となったと信じている。
三越ホールで生まれた数々の名舞台
さて戦後しばらくの間は、日本橋三越ホールで三越歌舞伎が上演され、福助から六代目 中村芝翫を襲名(昭和16年・1941年)した成駒屋、五代目 市川染五郎(後の初代白鸚)、二代目 尾上松緑等 若手俳優が常連でそれぞれ大役を勤めるようになった。歌舞伎座、明治座は空襲で焼けてしまい劇場が少なかったからだが、セリも廻り舞台もない狭いこのホールで、数々の名舞台が生まれたのだった。
この小さな劇場で歌右衛門が演じた役々の中で、特に印象に残っている演目が三つある。
第一に掲げたいのが『積恋雪関扉』(1947年6月)の小町姫と桜の精・墨染の役。ことに墨染は、その立ち姿の美しさ、おぼろで儚げな中に夫を想う情念の激しさに心を奪われ、その後も度々この役を勤めているが、私にはこの三越歌舞伎の時の印象が強い。
豊国:見立三十六歌撰之内 藤原元真「墨染桜の霊」
『忍夜恋曲者』(1948年7月)の滝夜叉姫は、傘をさしての出の姿の古怪な雰囲気、光圀さまと呼びかける艶めかしさ、光圀との手踊りの大らかさ。大ガマと共に屋根の上でキマル幕切れ(これは歌舞伎座に移って以後のことになるが)は、古い錦絵を見るようであった。
『妹背山女庭訓・三笠山御殿』(1947年12月)のお三輪は、恋人・求女の婚礼の祝言を聞いて逆上、髪を振り乱し奥へ駈け込もうとする姿がまさに”疑着の相”そのもの。内なる炎が爆発する姿だった。
印象深い、”ならでは”の役々
この他に、昭和22年(1947年)『籠釣瓶花街酔醒』の八つ橋を東劇で勤めた時、見染めの場の美しさ、特に引っこみの前に艶然と笑う笑顔が評判となった。その姿にすっかり熱を上げ、まるで劇中の佐野治郎左衛門のように千穐楽まで連日この場だけを見に通った男性を、私は知っている……
縁切りの件では、治郎左衛門に対しての”申し訳なさ”が常に底にあり、心理を丁寧に解析した描写が見事だった。
豊原国周:籠釣瓶花街酔醒
歌右衛門には『伽羅先代萩』の政岡や『仮名手本忠臣蔵』九段目の戸無瀬など猩々緋の着付の役も良く似合う。即ち、気性の強い、背に一本筋の通った女性である。